日常、宝探し隊員!

題なし

一番近しい存在である
親が亡くなってしまったとき
なんとも説明できないような
喪失感をはじめて体験しました。

当たり前にずっと一緒にいた人が
ある日いなくなるという感覚は
体験でしかわからないものだと思います。
そして、今まで大きな大きなルーフの下で
自分が守られていたのだと、愚かなことに
亡くなってはじめて、そんなことも実感しました。

この世にいなくなってしまった
その喪失感を埋めようと
頭の中でココロの中で
そのひとのことを思い描いて
会えることもあります。
しかし、それがさらに寂しく
感じることもありますが。

そんなことを繰り返しているうちに、
意識的に思い描かないと
お父さんが消えてしまう!と焦り、
そして同時に無償に悲しくなったある日のこと、
ふと自分の手元を見てみたら
父とそっくりのカタチをした
自分の指を発見したのでした。
鏡を覗いてみると
そこにはやはり父と同じカタチをした鼻を発見。
あ、お父さんが自分の中にいるんだ、と。

そしてまた、自分の内なる世界
つまり 自分の性格や思考回路などにも
あ、お父さんと同じ考え方してるな~
などと彼と同じ性質を見つけだすと
父の血が私に流れている、
父のDNAが私には確実に刻印されている、
そう強く感じました。

お父さんは私の頭の中で
想像したり、考えたりする中でだけ存在するのではなく
無意識の中でも、カタチとしても
存在するのではないか!と感じて
やっと安心するのです。
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  • 23:58 | Edit

頭の休日

昔読んだ小林秀雄の文章を思い出しました。
# ・・・小林秀雄の文章じゃないかも。
# 最近記憶に関して自信がありません。

・・・話しを戻します。

彼によると、、、
道端に野生のスミレが咲いているとする。
かわいい綺麗な花だなぁと思って近づいてみて
スミレだと言葉で物体を認識した時点で
「綺麗だな」というココロで感じたことを
頭の中で「スミレ」という名前の花、という情報にかわる。
この時点で、綺麗だという感動は薄れて
スミレという花だという情報として
頭の中へ吸収されてしまう。

つまり、感動や感じたモノやコト以上に
ひとつの限定された「言葉」によって
頭にインプットされてしまう・・
というような話だったと思います。

目から耳から入る情報が氾濫している中で
頭で考えることから離れて
感じるままに放っておくことって
最近あんまりないなぁ。

後で振り返って
「スミレを見た」という記憶より
「なんだかあの花、綺麗だったなー」
と気持ちよく感じたままにしておくのも素敵です。
ただ、ひとに伝えるのには
「綺麗なスミレ見たよ」で済んじゃいますからね。
言葉って本当に便利ですよね。

ヒトから聞いた話で誤解が生じるのも
そういう言葉で全部が伝えられるという
間違った認識があるからじゃないかな。
そもそも、言葉は記号であって
言葉では全部は伝えられないもので
ココロで感じている以上のことは
伝えられないんじゃないかなぁ。

だから、感じたことを
いちいち頭の中で消化しなくても
いいんじゃないかなと思います。
何にも考えずに なんとなく
ぼーっと気持ちよいナーぐらいに感じることって
毎日、体よりよっぽど酷使している頭を
解放してあげられるんじゃないかな。
頭の休日、つくらなくちゃ、あかんのう。
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  • 01:43 | Edit
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